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当方見聞録

第9章車両に見る江ノ電の一世紀

第1回

明治~大正期

 明治35年、江ノ電は4両の電車をもって運行を開始しました。これらの車両〔1~4号車〕は、天野工場(現日本車輌製造)製の車体とドイツのシーメンス&ハルスケ社製の電装機器を組み合わせたため、屋上にビューゲル式集電装置をのせた、当時としては異色の存在でした。また、長さ7.5m・幅員1.8mと、現在とは比較にならないほど小さな車両には運転台の窓ガラスがなく、前照灯は脱着式だったそうです。

 続いて、片瀬-極楽寺間の路線延長を控え、明治36年に増備された6両は、付随車3両〔5~7号車〕と電動車3両〔8~10号車〕で、これを機に2両編成の運行が開始されました。また同時に、既存の4号車を付随車に改造したのに加え、翌37年に3トン積無蓋貨車2両、明治44年に4両〔11~14号車〕が増備されたため、江之島電気鉄道(当社とは別法人)が電力会社である横浜電気に吸収合併(明治44年)される時点での在籍車両の内訳は、電動車8両・付随車6両・貨車2両となりました。

鵠沼駅に停車中の6号車付随客車

境川橋梁を行く続行運転中の単車 (大正期)

 江ノ電の経営が横浜電気に移行した後は、明治45年に4両〔15~18号車〕、大正9にも4両〔19~22両〕を増備していますが、この間、増車に対応するために極楽寺に車庫が新設され現在に至っています。なお、前面に窓ガラスが取り付けられるようになったのは11号車からで、初期の車両も同様に改造されました。また、集電装置も横浜電気時代にビューゲル式からポール式に変更されたようで、その変更理由は、架線と接する部分の磨耗が多くポールの方が経済性に優れていたからと言われています。

 このように横浜電気は、鉄道事業に積極的な投資を行っていましたが、第一次世界大戦後の不況の影響で、本業の電力事業の業績悪化を強いられ、大正10年に東京電灯に吸収合併されました。そのため、江ノ電の経営母体も同社に移り、東京電灯江之島線として再出発しています。之島線と呼ばれたのは、同社では他に群馬県の渋川を中心とした鉄道3路線(渋川-前橋・渋川-沼田・高崎-渋川-伊香保)を経営していたからで、4路線合計の営業キロは78.9kmに及んでいました。
 東京電灯時代に見る車両の変動は、1号車が関東大震災によって焼失したほか、震災後に渋川地区から2両の電動車が江之島線に転用され、23・24号車となっています。さらに昭和2年に、江ノ電初のボギー車が雨宮製作所から納入されましたが、同車を使用するための施設を改良する前に、江之島線が当社(大正15年創立)に営業譲渡されたため、東京電灯における新車の営業運転は行われませんでした。

『江ノ電の100年』は、開業100周年記念事業の一環として平成14年9月に発刊された江ノ島電鉄のオフィシャル史料です。400ページにわたるその構成内容は、鉄道以外の事業にも焦点をあてることにより社史としての平準化をはかり、新たに発掘された史料や貴重な写真も多数収録されております。